明治から昭和の歌人で、波瀾(はらん)万丈の人生を送った柳原白蓮(びゃくれん、1885〜1967)が自らしたためたり、ゆかりの人たちが書いたりした掛け軸や色紙、短冊など約130点を、大分県日田市の古美術商が保管していることがわかった。
研究者は「白蓮関係の作品がこれほど大量に眠っていたとは驚きだ。芸術性も高く、貴重な研究資料となる」と話している。
古美術商の永瀬微霜(びそう)さん(55)が所有している。掛け軸47点、色紙31点、短冊50点、額入り作品2点で、歌集「踏絵」「幻の華」「筑紫集」などに収録されている「朝化粧五月と那連ハ(なれば)京紅のあを起(き)光もなつ可しきかな」「和田津海の沖に火もゆる火の国にわれあり誰そやおもはれ人は」などの歌が書かれている。最初の夫、北小路資武(すけたけ)の書や、白蓮に短歌を教えたとされる養父・北小路随光(よりみつ)の書もある。
白蓮作品にくわしい文芸評論家の尾形明子さんは「白蓮関連の遺墨類としては日本一の質と量だろう」と話す。夫や養父の作品は尾形さんも「初めて見た」と驚く。
1980年ごろ、白蓮の再婚相手だった筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門が、大分県別府市に建てた別荘「あかがね御殿」が解体され、大量の書画骨董(こっとう)が処分された。その際に永瀬さんは同業の古美術商とともに東京でコンテナごと作品を入手したという。
後日に中身を点検し、白蓮とその関係者の銘が入った作品が、約70点含まれていることがわかった。永瀬さんは「大量の白蓮作品を見て縁(えにし)を感じた」と振り返る。その後は白蓮に関する資料を集め、各地のオークションに出る関連作品も買い足してきたという。
白蓮は伊藤伝右衛門と離婚後、病気の夫を抱えて赤貧の暮らしとなり、人から頼まれれば色紙や短冊に歌を書いて代金を受け取っていたといわれており、その頃の短冊や色紙もあると見られている。
初めて専門家の評価を聞いた永瀬さんは、「長年の肩の重荷を下ろした気分。今後は地元の日田市の振興に生かせれば」と話している。(園田裕道)
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